川崎堀之内ちょんの間の今昔 かつての賑わいは
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                        ちょんの間とは?
みなさんは「ちょんの間」という風俗をご存知ですか? 小料理屋風の店が立ち並ぶ中、まるでウィンドウショッピングのように女の子を物色。 気に入った子がいれば店の二階で事に及ぶ… そんなスタイルの風俗です。 15分や20分など短時間で本番を行うことから、「ちょんの間」あるいは「ちょいの間」などという名前がついたといわれています。 現行の風営法では違法であり、横浜の黄金町ではかつて大岡川沿いに多数のちょんの間が存在していましたが、横浜開港150周年を契機に厳しい摘発を受け、今は消滅してしまいました。 そんなちょんの間ですが、川崎の堀之内にもいくつか存在しています。 ソープ街として有名な堀之内になぜちょんの間が存在するのか、今はどうなっているのか、かつての賑わいを懐かしみながら調べてみましょう。堀之内にちょんの間ができた経緯とは
そもそもなぜ堀之内にちょんの間が誕生したのでしょうか? 事の発端は、川崎の街づくりにあります。 現在も川崎は京浜工業地帯の中心都市として多くの工場がありますが、もともとは100年ほど前から、現在の味の素や東芝などそうそうたる大企業の工場ができたことにあります。 当然工場ができればそこで働く人が増え、接待などで使用する高級な茶屋や、労働者階層が使用する低廉な風俗店も立ち並ぶようになりました。 もともと川崎は東海道の宿場町であり、多くの茶屋や旅籠があったこともあり、現在のような歓楽街が誕生したと考えられます。ちょんの間のかつての賑わい 外国人も在籍
そんな堀之内ですが、特にちょんの間という存在が目立ってきたのは昭和の後期から平成のはじめにかけてです。 建前上は小料理屋という形で、店で飲食しているうちに「たまたま」店員の女の子と恋愛関係に落ち、店の二階で事に及ぶという形式でした。 昭和後期から平成初期には外国人も多く在籍し、また1万円という低価格で最後まで楽しめるということもあって非常に繁盛したようです。 その国籍も、中国や韓国、フィリピンなどのようなアジア系のみならず、ロシア、東欧などの白人、ブラジルなどのラテン系も多く在籍しており、非日常感を味わえる場所であったということです。川崎堀之内ちょんの間の一斉摘発とその影響
そんな堀之内のちょんの間ですが、大きな転機が訪れます。
それが「一斉摘発」です。
おりしも時は2009年、ちょうど横浜市は中田市長のもと開港150年祭を開催しようというところでした。
国内外から多くの訪問者が訪れるであろうことを見越して、違法風俗店であるちょんの間の一斉摘発が行われたのです。
堀之内と同様に横浜市の黄金町には多くのちょんの間が存在していましたが、これにより壊滅。
しばらくは空き店舗が並ぶ通りになりましたが、次第に若手アーティストの発表や製作の場として使えたり、カフェとして使用できるようなスペースへと再開発されていきました。
隣の町である川崎堀之内もその余波を受け、一斉摘発を受けてしまったのです。
きっかけは、不法就労の外国人を雇用しているというところからの摘発でした。
摘発を受ける直前の2000年代は特に外国人の雇用が多く、「日本人がやるなら多少は大目に見るか」という姿勢をとっていた警察・入管でも見過ごせない状況になっていたということですね。

        

  
 
 
          
          
          
          