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ソープランドでも有名な日本有数の風俗街「吉原」の歴史

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全国の風俗ガイド

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吉原イメージ

吉原は、日本でもっとも有名な風俗街といっていいでしょう。
では、その吉原はいつ頃どんな理由で作られたのでしょうか。また、これまでどんな変遷をたどってきたのでしょうか。

有名なのに意外と知られていない、吉原の発祥と歴史を見てみましょう。

吉原の歴史について

現在の吉原は東京都台東区千束四丁目あたりにありますが、これは明暦の大火のあとに移築したものです。

最初の吉原は、江戸幕府開府直後の1617年、日本橋の芦屋町(現在の日本橋人形町)に作られました。


末廣神社近辺

しかし、当時の人形町はほとんど人家もなく、周囲は沼地ばかりだったところです。
このあたりは治安が悪く、強盗事件が多発してあまり人が近づかない場所でした。
そこで幕府が遊郭を作る計画を発案したときに、ここが候補地となりました。

売春街はある程度街並みから外れたほうがいいのと、沼地が多く強盗が出るような場所は他に利用価値もないため、売春街を作るにはちょうどよかったのです。

ちなみに、「吉原」の語源は開拓を指揮した庄司甚内が東海道の宿場・吉原宿の出身だったからという説と、葦の生い茂る沼地を開拓したためという説があります。
葦は「悪し」に通じるので、それを嫌って「吉」と変えたといわれています

なぜ江戸幕府は吉原を作ったのか

徳川家康の隠居地である駿府城城下に、家康公認の遊郭がありました。

人形町に作られた吉原は、家康没後にその一部を江戸に移したものといわれています。
しかし、どうして幕府はわざわざ駿府から移築してまで、遊郭を作ったのでしょうか。

それには、当時の江戸の事情が関係したといわれています。

家康が江戸に幕府を開くと、江戸は急に開けてきました。
日本各地から人が集まり、しだいに人口が増えていきました。しかし、集まってくるのは男性ばかりです。

江戸時代初期には、江戸の人口は約15万人だったと推計されていますが、そのほとんどが男性でした。

つまり、圧倒的に女性が少ないため、結婚できない男性が多かったのです。
そのため、男性の性処理のための施設作りが急務となり、吉原が誕生することになりました。

徳川家光の時代になると、さらに吉原の需要が拡大します。
それは、家光が大奥を作ったからです。

当時、大奥には3千人の若い女性がいました。

ただでさえ女性が少ないのに、10代後半から20代前半の若い女性を3千人も独占されたのでは、庶民はますます女性不足で、結婚できない男性が増えることになります。

また、参勤交代が始まると、多くの武士が地方から江戸に集まるようになり、吉原の必要性はさらに増していきました。

吉原はただの売春街ではない

吉原は幕府の肝煎りで作られた風俗街なので、単なる売春街ではありません。

吉原で遊ぶには、それなりに教養が必要で、しかもお金もかかりました。

もちろん安く遊べる女郎もいましたが、最高級の花魁と遊べるのは、大店の主人や息子など、ごく一部の富裕層に限られていました

そんな吉原には、そこで働きたい女性が各地から集まってきました。

地方から多く集まれば、方言や訛りが抜けない女性もたくさんいます。
そこで考案されたのが、吉原独特のしゃべり言葉でした。

「そうでありんす」という言い方がそれです。

この言い回しを使えば、多少訛りがあっても違和感なく客と会話することができました。

明治政府が吉原を非合法化

江戸時代にはそれなりに需要があり、多くの人々に支持されてきた吉原も、時代の変遷とともに微妙な立場に立たされることになります。

明治になり、文明開化を急ぐ政府は、吉原の存在をうとましく見るようになりました。
というのは、外国の賓客に対して、大きな風俗街が東京にあるのは、あまりいい印象ではないと考えたからです。

同じ理由で、銭湯の混浴も明治初期に禁止されています。

男女混浴は日本の伝統でしたが、「男女が混浴するのは、外国人からは野蛮に見える」というのがその理由でした。

吉原も銭湯の混浴も江戸初期から続いてきたものですが、それがほぼ同時期に規制を受けることになったのです。

吉原の受難はこれだけではありません。

明治5年(1872)に発せられた「娼妓解放令」により、吉原は非合法とみなされます。
さらに政府は「太政官布告295号」を発して、吉原にいる5000人の遊女を解放するという愚挙に出ました

このため、

行き場を失った遊女たちは私娼となるしかなく、かえって問題を大きくしてしまいました。

明治5年といえば、幕府が倒れた直後です。すべての武士が職を失い、武家の女性の中には、遊女となるしか生計を立てる道がない者も大勢いたといわれています

その時期に娼妓を非合法化すれば、混乱を招くのは目に見えています。

次々と吉原を襲う災難

最初に人形町に作られた吉原は、明暦の大火に遭いました。
しかし、なぜかその後も吉原は幾度も大火や災害に見舞われます。

明治44年(1911年)、大火で吉原が全焼します。
しかし、このときは奇跡的に、短期間でもとの吉原に復興することができました。

大正12年(1923年)、関東大震災でまたもや吉原が全焼します。
吉原は、明治時代には置屋が250以上もあり、隆盛を誇っていましたが、大正時代になるとそれが150ほどに減ってしまいました。

勢いが下降気味になってからの全焼ですから、このときは明治44年の大火よりも復興は手間取ったようです。
それでも、昭和初期には置屋の数も元に戻りました。

ところが、昭和20年(1945年)には、東京大空襲でまたもや全焼の憂き目に遭います。

さらに、昭和21年(1946年)、GHQによる公娼廃止で、江戸幕府初期から続いた吉原は、事実上幕を閉じることになりました。

しかし、公娼制度は廃止になっても、その後制定された「赤線」によって、吉原は細々と生き続けます。

しかし、昭和33年(1958年)、赤線が廃止となり、吉原の置屋は一斉廃業に追い込まれました。

それでも、吉原が風俗街として現在も存続しているのはご存知のとおりです。

「写真指名システム」や「風俗ガイド」を最初にはじめたのは吉原

ちなみに、現在の風俗店では当たり前の「写真指名システム」を日本で最初に始めたのは吉原といわれています。

また、風俗街ではどこでもある「風俗店ガイド」も吉原が発祥といわれています。
吉原は現在の風俗業界の基礎を作り、いまも生き続けています。

名高い日本の名所「吉原ソープ街」の魅力を君に伝えようの記事や
風俗ムーブで掲載されている浅草・吉原の風俗もご参考ください。

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